prologue
コポコポと培養液から空気の泡が立ち上る音が響く。
培養液とガラス越しに見る外の世界は、白衣を纏ったヒトたちが忙しなく動き、此方を卑下したような、それでいて好奇を含んだ瞳で見てくる世界だった。
物心が着いた頃には既にこの情景が目の前で繰り広げられていた。
どうやら己は受精卵の頃から此処にいるらしい。
胎児になるまでは人工子宮で育成され、赤子と認識されるレベルまで育ったら此方に移される。
このようにして、己は彼らに作られた。
そう知ったのはいつだったか。
確か、「一般教養が必要だ」と言って憚らないこの研究施設の局長によって、この培養液の詰まった大きなガラス張りの装置から外に出された時だ。
下世話なその男によって、己が作られた過程、己の身体のことを事細かに説明してくれた。
それに対し、何の感情も湧いてこなかった。というのが己の率直な感想だ。
己と『同じ』子供はこの施設の中にまだ数人いるらしい。
その子供達を『仲間』と一括りにして教えられたが、何の感慨も感じなかった。
それは一重にその『仲間』とやらに今まで一度も会ったことがなかったからだ。
その男が言うには己には己の、他の子達には他の子達の研究部屋が各1つづつ設けてあるらしく、何の為かまでは言わなかったが、1人1人隔離しているらしい。
はっきり言ってしまえば、そんな事実どうだってよかった。
知ったとしても、己には何も感じない、何もリアクションなど起こせはしないのだから。
『仲間』がいる。
ただ、その事実を知ってから、声が聞こえるようになった。
己の聴覚にではなく、直接脳に。
その声が響く。
なんて語りかけているのか。
名の無い己に識別させる言葉なんてないのに。
届く声が、己に向けているのだと、知る術など全くないのに。
ただ、漠然と。
己が呼ばれているのだと、思った。
そして、己からも相手を求めた。
呼べる名など知らないのに。
誰に向けているのかもわからないのに。
ただ、漠然と。
相手を呼んでいるのだと、思った。
音という声で、相手は己を呼び、己は相手を求めた。
「こちら、D−AF室。
Z-a0018、脳波に乱れが生じています!!」
【直ちに鎮静剤を投与しろ。
それは大事な実験体だ。そのまま狂って壊すなんてことにならないようにしろ。】
『こちら、G−BK室。
Z-a0030、脳波に乱れが生じています!!』
【何!!2体同時にか!?
D−AF、投薬中止。
……実験体2体の波長を調べろ!!】
部屋に備え付けられた通信機を通して怒声が部屋の中を響いているのが判った。
だが培養液の中にいる自分には何の問題も無いこと。
たとえそれが自分に向けられている指示だとしても、だ。
今自分が意識を向けるは、頭の中に響く相手の声。
呼べる名前も、呼ばれる名前も持たない自分には言葉にならない音を相手に返すだけ。
それでも、互いに互いの存在を求め合っているのだと、わかった。
それは、自分にとって絶対の相手。
自分にとって、無くてはならない存在。
可能な限り、自分は此処にいるのだと、相手に訴えかけた。
言葉にならない音。
でも、相手からも、己は此処にいるのだと、訴えかけられたような気がした。
「2体の脳波が完全に一致しています!!」
【至急2体を外に出しF−LCにてガラス越しで会わせろ。
くれぐれも直に会わすなよ。】
「『わかりました。』」
その声を合図に頭のてっぺんまで溜まっていた培養液がどんどん水位を下げてきた。
足元で小さな水たまりを作る頃には、白衣を着た数人の男たちによって投げかけられた「出ろ。」という短い言葉と共に外へと引っ張り出されていた。
荒々しく掴まれた腕に僅かな痛みを感じるも、そんな些細なことで起こすリアクションを持ち合わせていなかったので、終止、何の感情も映し出さないまま彼らに従った。
白い、白い廊下を、足音を立てずに歩く。
それは自身に限った事ではなく、彼らにも言えたことだった。
斜めに曲線を描く廊下をぼんやりと進んでいく。
それでも、その間ずっと相手の声は聞こえていた。
語りかけるような声からだんだん叫ぶような声へ。
言葉にならない音だけの声からだんだん音にすらならない声へ。
よりはっきりと、その音は脳に直接響いていて。
進むにつれて形容し難い感情が、自身の内で渦巻いていた。
歓喜、恐怖、好奇、悲嘆、愉悦、怒気、混乱、狂気、愁傷、欣喜——————————————何に対しての感情か。
それすらも解らないまま燻る感情はどんどん膨れ上がっていく。
そして、それはある一室の扉の前に辿り着くと、明確な2つの感情を現した。
「入れ。」
培養液の中から出された時と同じく、短い言葉で強引に部屋の中へと押し入られた。
向けられた力の赴くままに従って中へと入る。
眼前に捉えたのは自身と同じ年頃の『子供』。
彼らの局長とかいう男の言うところの『仲間』なのだろう。
そう認識した途端、室内へ入る前、明確に現れた感情が一層深まった。
自然と、中へ中へと導かれるようにして動く身体。
相手も同じようにして中へ行く自身に近付いてくる。
中央のガラスで仕切られている直前まで歩を進め、ガラスに手を置き、床へと膝をついた。
ガラスに手を這わせ、立て膝をするような格好で。
互いに隔てられたガラス越しに自身の右手と相手の左手、相手の右手と自身の左手とを合わせ、目を閉じて額同士をくっつけ合う。
互いを、一番近くで感じられる距離で。
そして、ポロポロと涙を零した。
ポロポロ、ポロポロ。
とめどなく溢れる涙は誰の為に流すのだろう。
声にならない叫びは誰に宛てたものだろう。
ただ、ひたすらに。
流れゆくまま涙は零れ落ちていく。
多分、この涙は、この音にならない叫びは、名前も知らない相手へのもの。
ただ、成すがままに、焦がれていた相手への喜びと悲しみ故のもの。
自身にとって唯一の存在に出逢えた喜びと、唯一の存在に出逢ってしまった悲しみ。
相手が大切だからこそ嬉しい。
たから、哀しくもある。
許される限り、2人は静かに涙を流し続けた。
その後、研究員によって、夜明けのような漆黒に近い宵闇の髪色をしている方を『アダム』と、豊かな大地を思わせる髪色をしている方を『イブ』と識別されるようになった。
アダムとイブは神により楽園を追放された。
なら、もし自分たちの意思で、2人が神を楽園から追放したとしたら…?
