遠き日のあの存在
「工藤優希、ね。
 あぁ、黒羽君と結婚するから黒羽優希、かしら?」
「結婚つっても、何も変わらないけどな。俺も、快斗も。
 ただ世間の型にはまるだけだ。」
「それもそうね。」

日も暮れ落ちた今時分、夕飯時なのだろう。
他の家から夕飯の匂いが漂い始めている。
そんな中、新一と哀は家の敷地と敷地を隔てる庭にて色々と報告をし合っていた。
新一は昨夜両親が訪れ、朝方には帰ってしまったこと。
その時の書置きにて新一の女としての名前が書かれていたことを。
哀は昨日の昼間から行っていた新一の身体についての研究の結果を。
何故この時間の報告になっているのかといえば、理由は哀にあった。
昨日の昼間から研究を行っていたという場所は阿笠邸の地下室。
哀専用の研究所になっているところだが、如何せん、其処には時計が置いていなかった。
否、語弊があるが、時間を確かめるための時計は置いていなかったのだ。
それはどういうことか。
つまりは、実験に必要な時間を測るための時計は置いてあるのだが、哀が自分で過ぎていく時を確かめるための時計は置いていないのだ。
そのため、約1日半ほどずっと研究室に篭っており、先ほどやっと地上へと顔を覗かせたばかりだったりする。
其れ故、このような時間になってしまったのだ。

「工藤君も、黒羽君も。
 幸せならそれでいいわ。」
「灰原…」

どことなく儚げな笑みを浮べ、哀は静かに言葉を紡いだ。
その言葉にかかる思いは後悔と安堵。
相反する感情だけど、今の哀の心中に燻る思いはその2つだけだった。

「お前はいつでも俺のこと工藤って呼ぶよな。」

哀の思いを察してか、新一が哀に向かって言葉を投げかけた。
その問いは、常々思っていたこと。
しかして、その問いの深みにあるものは、昔、そして今も猶、新一の心中にも燻っていること。

「だって、私にとって江戸川コナンのときも黒羽優希になっても、あなたは工藤新一には変わりないもの。
 それに、あなたはそれを悩んでいたでしょう?」
「そりゃあな。
 俺は江戸川コナンであると同時に工藤新一だった。
 工藤新一なのに、偽りの姿で世間を騙さなきゃいけなくて、元の姿に戻ればコナンは幻になるンだ。
 そして今度は工藤新一さえも幻になった。
 自分の本当の姿が分からなくなる。
 それを悩むなって言う方が無理だぜ。

 お前もやっぱり宮野志保を知ってる人間には本当の名前で呼ばれたいか?」

少々俯き気味に新一へ返答を返す哀の表情は知れない。
新一の言葉を聞く時の表情もわからなかったが、一呼吸置いてからの核心をついた新一の問いに、一瞬身体を強張らせた気配がした。
多分哀の表情も、些か目を瞠り、驚いたような表情をしているのだろう。

「確かに、そう名前を呼ばれることで、過去の私は存在するけど…
 宮野志保は工藤新一を傷つけた存在でしかないわ。
 それだけじゃない。
 もっと酷い事を成して来た女。
 お姉ちゃんを死なせてしまった女。

 けれど、あなた達は私を許してくれた。
 傍にいることを許し、今の私の存在を認め、私を必要としてくれた。
 それでも私は宮野志保と言う存在は許せない。
 だから私は灰原哀としてあなた達の傍にいるの。
 宮野志保が仕出かしたことを全て償うために。」

小さな掌で、力いっぱいの握り拳を作り、俯き勢いのまま彼女の胸に留まり続けていた感情を吐露する。
『工藤新一を傷つけた』という言葉の中には、今回の、身体の変化の件も含まれているのだろう。
元に戻れはしたが、今まで飲んできた未完成の解毒剤のせいで、体細胞の染色体に異常を来たし、彼の人生を壊してしまうところだったのだから。
そのせいで、要らぬ不安と心配を新一と快斗にかけてしまった。
結果だけを見るのならば、丸く収まり自分の危惧していたことは杞憂に終わったのだが、内面はこんな不安と恐怖でいっぱいだった。
それでもそんなことをおくびにも出さずに飄々としていたのは、己の身体が変わってしまって、尚且つ快斗の心まで変わってしまうことを恐れていた新一がいたから。
本人である彼があんなにも不安に駆られている中で、それを成してしまった自分が不安と恐怖に嘆くのはお門違いな気さえして、全てを気付かれないように胸のうちに隠していた。
冷静であろうとすればするほど、冷静でいられなくなる自分を叱咤して、2人の傍にいたのだ。
そんな哀の内情が窺えるほど哀は抱えていた柵を吐き出した。

「そんなに気負うな、灰原。」
「そうそ。
 そんなに小さな身体で全部を背負う必要なんて何処にもないよ。」
「黒羽君……」
「快斗。」

行き成り現れたのは、夕飯時の今現在、台所で夕食の準備をしているだろう快斗だ。
人の気配に聡い2人だからこそ、突如現れた快斗に驚きはしなかったものの、哀の独白めいた告白を聞いていた事に少しばかりの驚きがあった。
一体いつから2人の会話を聞いていたのだろう。
そう思えるほど、会話中には快斗の気配はしなかった。

「俺は今の哀ちゃんしか知らないから無責任なことしか言えないけど。
 言えないから、無遠慮に矛盾してても言っちゃうよ。

 哀ちゃんは1人でそんなに抱え込むことないンだよ。
 哀ちゃんが抱え込んでいることは全部『宮野志保』という過去の人物がしてきたことで、 今の哀ちゃんは『灰原哀』という全く別の人物じゃない。
 過去なんて関係ないよ。
 それでも色々と抱え込んじゃうなら、半分は俺たちに押し付けてよ。
 途中で行き詰まって転んでも手をついて立ち上がれるようにさ。
 そんでもって、『宮野志保』という人物のことを絶対に忘れちゃダメだよ。
 『宮野志保』という人物は哀ちゃんの過去でもあるから。
 両親から初めて与えられた愛情を、絶対に忘れちゃダメだからね。」
「…ホントに矛盾、してるわね。

 けど、ありがとう。」

最初は茶目っ気たっぷりに話していた快斗だったが、一呼吸置いてから話し始めたときには穏やかで、どこか哀を慈しむような雰囲気を纏っていた。
それは多分、その姿には似つかわしくないことを哀が背負っていたから。
小さな身体には重過ぎることをただ1人で背負っていた哀に、その重しを撥ね退けるチャンスを与えるために。
全てを払拭できなくても、少しずつ、雁字搦めになっていた鎖を外せるように。
快斗の想いが伝わったのか、哀は、微かではあるが、2人には聞き取れる範囲で快斗にお礼を述べた。
その瞬間、快斗と新一は穏やかな笑みを浮べ合って、哀を見つめていた。
俯いていた哀には2人の表情は見えなかったが、2人からも哀の表情は見えなかった。




「けど俺、哀ちゃんがその姿を選択してちょっと嬉しかったンだ。」
「俺もだ。」
「……どうして?」
「灰原、日本の学校に通った事無かったンだろう?」
「それに、同年代の友達とかと遊んだ事無かったでしょ?
 今まで出来なかった楽しい事をいっぱい経験してほしいと思ったからさ。」

まぁ、同年代と言っても実年齢は10歳くらい違っちゃうけどね。と、些か苦笑を含みながら、快斗はあれこれ自分が今まで体験してきた子供の頃の楽しいことを話している。
その横では新一も色々と口を挟みながら、自分の子供の頃を振り返っているようだ。
ぽんぽん快斗の口から飛び出す遊び名はどれも哀には聞き慣れない物ばかりで。
それを楽しむのも、良いと思えて。

「ええ、そうね。
 私はまだまだ楽しい事を何一つ知らないものね。」

穏やかな時の流れは、もうすぐそこまできていて。
日が落ちたとき独特のオレンジだった空は、今はもう夜の帳を落とし始めていて、紫と藍を混ぜた色になっていた。







□-◇あとがき◇-□

今回は哀ちゃんメインでお願いします。
えーっと、コレはデスネ。
他のサイトさんの小説を読んでいると、よく新一が本名じゃない偽りの名(例えばコナン)で呼ばれることに対して情緒不安定になるという話があるのですが、何故か哀ちゃんの話は見かけないな。と。(←当たり前だろう。全部が全部快新サイトだぜ?)
まぁ、快新サイト様なのだから、それは仕方の無い事だとは思うのですが、新一の事を(快斗の次に)一番心配している哀ちゃんの話もあるべきじゃない?と思うのですよ。
で。思い立ったら吉日と言いますか、コレがコレに至る。と。(←イミフメイ)
私の書く快新は哀ちゃんのこと滅茶苦茶大事にしてマス。
だからこそのこの話なのですが。
と言ってもいつもながらに話の構成ハチャメチャで繋がりがものすごく薄いのだけれど。
(気にしなぁ~い。)

ホントは新一さんを孕ませた後に持ってこようとした話だったンですが、思いの外1話1話の繋がりが…難しくて。